2010年01月02日
ジュリアン・シュナーベル
ジュリアン・シュナーベル
彼の作品には現在最高の価格が付く。その一方で芸術性については批判する人たちもいます。
映画監督としての顔もあります。96年の「バスキア」を発表して高い評価を得ています。モーリー・セイファー記者が彼のアトリエを訪れました。
あなたの作品の価値はどれくらいですか?
:あの絵は大体100万円くらい。最近の作品だとあれなら60万ドルくらいでしょう。
この30年間ジュリアン・シュナーベルのアートは賛否両論を起こしてきました。彼自身が得たのはロングアイランドのモントーク岬の屋敷。ニューヨークはグリニッジビレッジの家です。
ピンクパレスと呼ばれるこの家が彼の活動拠点。360度の眺望が望めます。家の中は巨大な彫刻、6メートル以上の天井。桁外れに大きな彼の作品。
:離れて見るといきいきとした描写がわかるでしょう。
居間は彼のお気に入りの作品で占められています。大きな少女の絵は以前がらくた屋で見つけた素人の絵からインスピレーションを受けたそうです。
:目を塗りつぶしたのはあごに目が行くようにだと。
彼自身、アートは説明しようとすると捉えどころがなくなると。
:目が離せなくなるんだ。
彼は常に新しい表現を求めます。古い防水シート、ビロードに描いたことも。
:自分の絵はジャズミュージシャンに似ている。始め方はわかっていてもその先どうなるかは必ずしもわかっていない。神のお導き次第という感じ。光に打たれる場合もあれば撃たれない場合もある。それは映画作りも同じだね。
彼が映画の製作者として成功したのは間違いありません。これまでに5部門にアカデミー賞にノミネートされ、ゴールデングローブ賞とカンヌ映画祭では監督賞を受賞しました。
:映画監督になるには年を取りすぎていると思ったけど、デニス・ホッパーからはキャリア40年に見えると言われたよ。
「バスキア」(1996年)は28歳という若さでドラッグでこの世を去ったアーティストの悲劇的な人生を描いたもの。80年代に加熱しすぎたニューヨークのアート業界の犠牲になったのです。シュナーベル自身が体験した文化です。
「夜になる前に」(2000年)は迫害されたキューバ人小説家レーナルド・アレナスの過酷な人生を描きました。書くことが最高の復讐と信じエイズで亡くなった作家です。
最新作「潜水服は蝶の夢を見る」(2007年)は華やかな人生を送っていたあるフランス人男性が突然全身麻痺に陥った感動的な実話です。
映画でも彼は俳優の演技を引き出す独自の方法を編み出しました。即興の方法を見出しました。即興に時間を取るという方法です。
:みんなを一つの穴に放り込む。一人残らず脱出出来れば自分も含めて家に帰れる。それがテクニックだよ。もし出来なければ映画は死んでしまう。
ブルックリン生まれの57歳。子供の頃はキッチンテーブルの下でよく絵を描いたそうです。
:姉や兄たちはみんなずっと年が上だったので一人でいることが多かった。絵はうまかったようで子供の頃からアーティストだったというか、それ以外のことは考えられなかったね。
10歳の頃、母親に連れて行かれたメトロポリタン美術館で最初に見た絵に衝撃を受けました。アヴァンギャルドな抽象画ではありませんでした。
:レンブラントのホメロスの肖像を見つめるアリストテレスの絵。自分にとっては衝撃的で光を放っているようにも見えた。
映画にも心を躍らせました。特にスペクタクル映画の王様セシル・B・デミル監督の映画に。
:「十戒」で紅海が二つに割れるシーンが大好きだった。あの瞬間こそスペクタクル映画の真骨頂だね。
デミル監督のド派手な大作は映画好きな少年にショービジネス、ひいては人生最大のルールを教えました。まずは注目を集めなさいと。
:映画の中に対立がなければ映画にはならない。
ブルックリンのシュナーベル家は一箇所にじっとしていることなく、彼が15歳の時、父親は家族を連れてテキサス州ブラウンズビルへ。少なくとも文化的にはニューヨークとはかけ離れていました。
自己形成の場はブルックリン、ブラーンズビル?
:100パーセント、ブラウンズビルだね。
ブルックリン出身の15歳の少年はリオグランデ川の厳しい暮らしにすぐに順応しました。メキシコ湾でサーフィンを習得。それは今でも彼の楽しみの一つです。そして、マリファナにも手を出しました。
:マリファナの中心地だからね。マリファナやLSDをやっていたのかと聞かれれば答えはイエス。でも、麻薬ディーラーはやっていないよ。
テキサス州でぱっとしない大学生活を終えた後、70年代後半から80年代初めに売れないアーティストなら誰でもするような仕事をしながら。
:タクシーの運転手やコック。
サングラスを売っていた時期もあったそうですね。
:確か絵が6000ドルで売れた時期にコックをやめたんだ。
常に新しい物を追いかけるアート界と喜んで要望に応じるシュナーベルはニューヨークでは絶妙な組み合わせでした。1983年31歳の時にマンハッタン中の話題になりました。彼のプレートペインティングがアート界をとりこにしたのです。
:誰も見たことがない作品だったので奪い合いになったんだ。
プレートペインティングとは文字通り壊れた皿や陶器の破片を巨大なキャンバスに貼り付けた作品。素材を求めて彼が行く先は当然救世軍のリサイクルショップです。
:その店では障害がある人を採用していて、体が極端に小さい人もいる。箱が大きすぎて大変そうだから落としちゃってくれと言ったんだ。どうせ壊すんだからね。同じことさ。
それ以来皿を叩き壊し騒音を立てながら突き進んできました。アートに映画に自分自身に注目を集めながら。映画の評論は例外なく肯定的です。アートについては大勢のファンがいる一方で容赦なくけなす人も。彼は批判を軽く受け流せない。このインタビューである美術評論家兼歴史家の名前を出した時にそれは明らかになりました。
ビロードに泥を塗ったような画
見せかけの激しさ
批評と言えば、あなたの強敵ロバート・ヒューズ氏はシルベスター・スタローンの演技と同類だと言いました。
:それが聞きたかったのか。ヒューズはバーの椅子に腰掛けながら誰かがバナナの皮で転ぶのを待っているような弱いものいじめだ。
ヒューズ氏は評判の高い美術評論家です。タイムズ紙に時には毒のある評論を書いてきました。その彼がシュナーベルはがらくたを売る二流アーティストだと切り捨てたのです。
彼にこだわりがあるんですね。
:彼は無能だよ。あの男が好きじゃないだけだ。あなたが彼の話をしたいのならお好きなように。
あなたが持っている全てをカバーしたいんです。
あなたはご自分の思うようにすればいい。あの男について話すにしても実際基本的にネガティブな人間だと言うしかないね。
私はギアチェンジを計り、彼がアーティストから映画制作に至った話に。
画家として決断しながらも映画は心の奥にあったんですか。
:ヒューズのことでまだ胸糞悪い気分だ。でも、彼の批評は非常にいい加減だと思うんだ。
シュナーベルはネガティブな批評がアーティスト自身に向けたもので作品に対してではないと感じています。しかし、自分自身が最大の作品だとみなす彼が混乱するのも無理はないのかもしれません。
彼は2度結婚し5人の子供がいます。長年かけて全員の肖像画を描きました。
:最初のうちは彼を夫として考えたことはありませんでした。
スペイン人女優オラッツ・ロペス・ガルベンディアはシュナーベルの妻で多くの愛情溢れる絵のテーマになりました。
最初は彼をどう思いましたか。
妻:チャーミングであると同時に怖い人だと。たぶん気性の激しいタイプだからだと思います。
彼女は日本のシュナーベル作品に出演。二人は出会ってから5年後に結婚。
妻:偶然出会うことが度々あって、その度に彼から誘われて。
くどかれた。しつこかったんですね。
妻:ええ。
シュナーベルは彼女の名前を入れた巨大な絵を描き、その一枚をパリに住む彼女にプレゼントしました。
妻:窓の外から絵を運び入れたんですよ。彼からのラブレターだと思いました。
このインタビュー以来二人の結婚は暗礁に乗り上げたようです。ニューヨークの気まぐれなアート界もシュナーベルへの愛が冷めていないとしても既に若手アーティストに触手を伸ばしています。しかし、海外では今もシュナーベルはもてもて。絶賛の嵐にご満悦な様子です。
自尊心がかなり強いほうですね。
:いつもそう言われているけど。絵を描いたとか、映画を作ったとかいうだけで自尊心が強いというならそうだけど。
自尊心が強いのは悪くはないでしょう。
:でも、マーロン・ブランドに同じ質問をするかい。
たぶん。
:ではあなた自身は。
私は違います。
:強いよ。
--------
彼の人気が高まってきた80年代のあたりからニューヨークを中心にアーティストが成功するにはマーケティングの才能がなければならないと言われ始めたんですね。たぶん、そういう状況のきっかけを作ったのが彼だと思うんです。結果的に彼以降のアーティストたちは必ずしもありがたなくない条件を付けつけられたと思います。
彼はヒューストン大学を卒業した後にウィットニー美術館の研究コースに入るために自分の作品を写真に撮ってスライドをパンに挟んで送ったんだそうです。
彼の次の映画は来年公開予定の建国時代のイスラエルを舞台にエルサレムで児童擁護施設を作ったパレスチナ女性のことを描いた作品なんだそうです。
彼が住んでいるニューヨークのアパートの価値は2,3年前よりも半分になったそうです。
不動産バブルも美術バブルもはじけて、特に現代アートの作家たちの作品もとても下がっているので彼もそうかもしれません。
(2009年CBSドキュメント「鬼才シュナーベル Schnabel」より)
アートの作品は特に好きではないけど、これまでの映画の作品を観ていくと、映画作家としては超一流だと言わざるを得ない。現代において、こんなに大成功したアーティストもほかにいないのではないだろうか。
インタビューを見ていると気難しいのがわかる。
:自分の絵はジャズミュージシャンに似ている。始め方はわかっていてもその先どうなるかは必ずしもわかっていない。神のお導き次第という感じ。光に打たれる場合もあれば撃たれない場合もある。それは映画作りも同じだね。
彼が映画の製作者として成功したのは間違いありません。これまでに5部門にアカデミー賞にノミネートされ、ゴールデングローブ賞とカンヌ映画祭では監督賞を受賞しました。
:映画監督になるには年を取りすぎていると思ったけど、デニス・ホッパーからはキャリア40年に見えると言われたよ。
「バスキア」(1996年)は28歳という若さでドラッグでこの世を去ったアーティストの悲劇的な人生を描いたもの。80年代に加熱しすぎたニューヨークのアート業界の犠牲になったのです。シュナーベル自身が体験した文化です。
「夜になる前に」(2000年)は迫害されたキューバ人小説家レーナルド・アレナスの過酷な人生を描きました。書くことが最高の復讐と信じエイズで亡くなった作家です。
最新作「潜水服は蝶の夢を見る」(2007年)は華やかな人生を送っていたあるフランス人男性が突然全身麻痺に陥った感動的な実話です。
映画でも彼は俳優の演技を引き出す独自の方法を編み出しました。即興の方法を見出しました。即興に時間を取るという方法です。
:みんなを一つの穴に放り込む。一人残らず脱出出来れば自分も含めて家に帰れる。それがテクニックだよ。もし出来なければ映画は死んでしまう。
ブルックリン生まれの57歳。子供の頃はキッチンテーブルの下でよく絵を描いたそうです。
:姉や兄たちはみんなずっと年が上だったので一人でいることが多かった。絵はうまかったようで子供の頃からアーティストだったというか、それ以外のことは考えられなかったね。
10歳の頃、母親に連れて行かれたメトロポリタン美術館で最初に見た絵に衝撃を受けました。アヴァンギャルドな抽象画ではありませんでした。
:レンブラントのホメロスの肖像を見つめるアリストテレスの絵。自分にとっては衝撃的で光を放っているようにも見えた。
映画にも心を躍らせました。特にスペクタクル映画の王様セシル・B・デミル監督の映画に。
:「十戒」で紅海が二つに割れるシーンが大好きだった。あの瞬間こそスペクタクル映画の真骨頂だね。
デミル監督のド派手な大作は映画好きな少年にショービジネス、ひいては人生最大のルールを教えました。まずは注目を集めなさいと。
:映画の中に対立がなければ映画にはならない。
ブルックリンのシュナーベル家は一箇所にじっとしていることなく、彼が15歳の時、父親は家族を連れてテキサス州ブラウンズビルへ。少なくとも文化的にはニューヨークとはかけ離れていました。
自己形成の場はブルックリン、ブラーンズビル?
:100パーセント、ブラウンズビルだね。
ブルックリン出身の15歳の少年はリオグランデ川の厳しい暮らしにすぐに順応しました。メキシコ湾でサーフィンを習得。それは今でも彼の楽しみの一つです。そして、マリファナにも手を出しました。
:マリファナの中心地だからね。マリファナやLSDをやっていたのかと聞かれれば答えはイエス。でも、麻薬ディーラーはやっていないよ。
テキサス州でぱっとしない大学生活を終えた後、70年代後半から80年代初めに売れないアーティストなら誰でもするような仕事をしながら。
:タクシーの運転手やコック。
サングラスを売っていた時期もあったそうですね。
:確か絵が6000ドルで売れた時期にコックをやめたんだ。
常に新しい物を追いかけるアート界と喜んで要望に応じるシュナーベルはニューヨークでは絶妙な組み合わせでした。1983年31歳の時にマンハッタン中の話題になりました。彼のプレートペインティングがアート界をとりこにしたのです。
:誰も見たことがない作品だったので奪い合いになったんだ。
プレートペインティングとは文字通り壊れた皿や陶器の破片を巨大なキャンバスに貼り付けた作品。素材を求めて彼が行く先は当然救世軍のリサイクルショップです。
:その店では障害がある人を採用していて、体が極端に小さい人もいる。箱が大きすぎて大変そうだから落としちゃってくれと言ったんだ。どうせ壊すんだからね。同じことさ。
それ以来皿を叩き壊し騒音を立てながら突き進んできました。アートに映画に自分自身に注目を集めながら。映画の評論は例外なく肯定的です。アートについては大勢のファンがいる一方で容赦なくけなす人も。彼は批判を軽く受け流せない。このインタビューである美術評論家兼歴史家の名前を出した時にそれは明らかになりました。
ビロードに泥を塗ったような画
見せかけの激しさ
批評と言えば、あなたの強敵ロバート・ヒューズ氏はシルベスター・スタローンの演技と同類だと言いました。
:それが聞きたかったのか。ヒューズはバーの椅子に腰掛けながら誰かがバナナの皮で転ぶのを待っているような弱いものいじめだ。
ヒューズ氏は評判の高い美術評論家です。タイムズ紙に時には毒のある評論を書いてきました。その彼がシュナーベルはがらくたを売る二流アーティストだと切り捨てたのです。
彼にこだわりがあるんですね。
:彼は無能だよ。あの男が好きじゃないだけだ。あなたが彼の話をしたいのならお好きなように。
あなたが持っている全てをカバーしたいんです。
あなたはご自分の思うようにすればいい。あの男について話すにしても実際基本的にネガティブな人間だと言うしかないね。
私はギアチェンジを計り、彼がアーティストから映画制作に至った話に。
画家として決断しながらも映画は心の奥にあったんですか。
:ヒューズのことでまだ胸糞悪い気分だ。でも、彼の批評は非常にいい加減だと思うんだ。
シュナーベルはネガティブな批評がアーティスト自身に向けたもので作品に対してではないと感じています。しかし、自分自身が最大の作品だとみなす彼が混乱するのも無理はないのかもしれません。
彼は2度結婚し5人の子供がいます。長年かけて全員の肖像画を描きました。
:最初のうちは彼を夫として考えたことはありませんでした。
スペイン人女優オラッツ・ロペス・ガルベンディアはシュナーベルの妻で多くの愛情溢れる絵のテーマになりました。
最初は彼をどう思いましたか。
妻:チャーミングであると同時に怖い人だと。たぶん気性の激しいタイプだからだと思います。
彼女は日本のシュナーベル作品に出演。二人は出会ってから5年後に結婚。
妻:偶然出会うことが度々あって、その度に彼から誘われて。
くどかれた。しつこかったんですね。
妻:ええ。
シュナーベルは彼女の名前を入れた巨大な絵を描き、その一枚をパリに住む彼女にプレゼントしました。
妻:窓の外から絵を運び入れたんですよ。彼からのラブレターだと思いました。
このインタビュー以来二人の結婚は暗礁に乗り上げたようです。ニューヨークの気まぐれなアート界もシュナーベルへの愛が冷めていないとしても既に若手アーティストに触手を伸ばしています。しかし、海外では今もシュナーベルはもてもて。絶賛の嵐にご満悦な様子です。
自尊心がかなり強いほうですね。
:いつもそう言われているけど。絵を描いたとか、映画を作ったとかいうだけで自尊心が強いというならそうだけど。
自尊心が強いのは悪くはないでしょう。
:でも、マーロン・ブランドに同じ質問をするかい。
たぶん。
:ではあなた自身は。
私は違います。
:強いよ。
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彼の人気が高まってきた80年代のあたりからニューヨークを中心にアーティストが成功するにはマーケティングの才能がなければならないと言われ始めたんですね。たぶん、そういう状況のきっかけを作ったのが彼だと思うんです。結果的に彼以降のアーティストたちは必ずしもありがたなくない条件を付けつけられたと思います。
彼はヒューストン大学を卒業した後にウィットニー美術館の研究コースに入るために自分の作品を写真に撮ってスライドをパンに挟んで送ったんだそうです。
彼の次の映画は来年公開予定の建国時代のイスラエルを舞台にエルサレムで児童擁護施設を作ったパレスチナ女性のことを描いた作品なんだそうです。
彼が住んでいるニューヨークのアパートの価値は2,3年前よりも半分になったそうです。
不動産バブルも美術バブルもはじけて、特に現代アートの作家たちの作品もとても下がっているので彼もそうかもしれません。
(2009年CBSドキュメント「鬼才シュナーベル Schnabel」より)
アートの作品は特に好きではないけど、これまでの映画の作品を観ていくと、映画作家としては超一流だと言わざるを得ない。現代において、こんなに大成功したアーティストもほかにいないのではないだろうか。
インタビューを見ていると気難しいのがわかる。